光と闇の戦い
ボン教からトンバ教へもたらされた
古代ペルシア型宇宙創世神話の謎を探る
イントロ
白(ドゥ)部落の天も地も太陽も月も星も白く、光にあふれていた。
黒(シュ)部落の天も地も太陽も月も星も黒く、真っ暗だった。
出発点は素朴な、ささやかな疑問だった。
中国雲南北部の山間盆地に横たわる静かで伝統の奥ゆきを感じさせる石畳と瓦の街、麗江。このナシ族の古都の北にそびえる玉竜雪山の向こう側に、白水台の名で知られるトンバ教聖地、白地がある。私はここでトンバ自身からトンバ教を学んできた。
ナシ族の名を世に知らしめたのは、漫画やイラストを連想させるトンバ文字だった。宗教祭司トンバが儀礼の際によむ知恵の宝庫トンバ経典は、絵と記号を複合したこのトンバ文字によって描かれる。それは世界唯一の生きている象形文字である。トンバ文字は一種の記憶装置というべきものだ。仕掛けの秘密を知る神官トンバだけが独占的に解読し、書くことができるという意味で、トンバ文字は大衆に開かれた文字というより神聖文字なのである。
かつては何万冊もあったトンバ経典の大半は文革のあいだに散逸してしまったが、それでも相当数の経典が生き延びた。『中国原始宗教・資料叢集』は、儀礼を十二種目に分類し、そのときによまれる637種類ものトンバ経典の題目をあげている。内容的に重複する場合もかなりあるので、ざっと二、三百種類の経典が存在すると考えていいだろう。
その厖大な経典のなかでも神話形式で語られる「ドゥ部落とシュ部落の戦い」だけがほかとはちがう不思議な輝きを放っていると、私はかねてから感じてきた。聞く者を楽しませるかのように、有力二大部落の抗争にロミオとジュリエットばりの悲恋までもからめてドラマ化しているが、そのエッセンスは白と黒の戦い、すなわち光と闇の戦争なのである。中国的な陰と陽の合一ではない、光と闇の戦争。この二元論的神話はきわめて古代ペルシア的ではないだろうか。もっと具体的にいえば、ゾロアスター教的、あるいはマニ教的ではないだろうか。
たしかにゾロアスター教、マニ教ともソグド人やウイグル人によって唐代の中国にもたらされ、マニ教にいたっては中国東南沿海の福建にまで到達し、宋元代にピークをむかえたあと、明代まで余命を保った。とはいえそう簡単に古代ペルシア宗教の神話がナシ族の神話に取り入れられるとは思えない。考えられるとすれば、仲介役の存在だ。それがボン教である。ボン教はさまざまな面でペルシアの影響を受けていると考えられ、その創世神話も例外ではない。
第一部トンバ教は古代ボン教か?
古代ボン教が伝播してナシ族のトンバ教になったのか、ボン教に触発されてナシ族の民間宗教がトンバ教に発展したのか。トンバ教の成り立ちに関してはまだ決定的な結論が出ていないが、ペルシアの創世神話を取り入れたボン教の創世神話がナシ族に伝えられ、それが改良されて「ドゥ部落とシュ部落の戦い」が成立したという仮説は突飛ではない。
ジョゼフ・ロックが『ナシ族のナーガ崇拝と諸儀礼』1952年)を著したとき、その序において著名なチベット学者トゥッチは、「ロック博士はまさに実践されているボン教に光を当てた」と、あたかもトンバ教がボン教そのものであるごとくみなし、チベットでは見られなくなった古いボン教儀礼を発掘し研究したとして、ロックを絶賛した。トゥッチにかぎらず、トンバ教に古代ボン教の遺風を見ようとする傾向は、期待感もあいまってか強かった。
西側のそうしたアプローチにたいし、ナシ族を含む中国側の多くの研究者は慎重だった。時代はあとになるが、たとえば林向簫は、開祖(トンバシャラとトンバ・シェンラブ)の名称や伝記、宗教の内容、神々や魔物などさまざまな項目の比較を詳細におこない、同一とはみなしがたいという結論に至った。根拠のひとつとして、ナシ族の伝説をあげる。かつてトンバ教開祖トンバシャラはラサでボン教内の権力争いに破れ、いわば都落ちしてトンバ教を開いたというのである。しかし、この伝説はトンバ教がボン教の一派であること以外のなにものも物語っていないのではなかろうか。
こうして諸説紛糾とするのは、そもそもボン教が本来どのような姿をしていたのか、輪郭が見えにくいことに起因している。現在われわれがチベットやインドで目にすることができるボン教は、チベット仏教、とくにニンマ派と見かけ上ほとんどかわらない、いわゆるギュル・ボンとよばれるものである。通常、二百年前の転生ラマにして大仏教学者トゥカン・ロサン・チューギ・ニマの分類法にしたがい、ボン教をドゥル・ボン(示現されたボン)、キャル・ボン(派生したボン)、ギュル・ボン(変容したボン)の三段階に分けるが、前二者は消滅してしまったと考えられているのである。
しかし、実際は消えてしまったのではない。われわれがチベット仏教に入り込んでいる民間宗教的要素とみなしているもののなかには、ボン教の残滓と思われるものがある。また、儀礼、占星術、医薬学などにもボン教が発展させたものが吸収されている。
古代ボン教の手がかりは、その痕跡の広がりにある。ナシ族を含むチベット周縁の民族のあいだに古代ボン教をしのばせるものが見出されることは、しばしば指輪されることだ。とくに民間宗教集司のことをタマン族がボンボ、シェルパ族がプンボ、そしてナシ族がプンプ(トンバ)とよぶのは偶然とは思えない。まるではるか昔、ボン教徒がチベット周辺で積極的に布教活動をした名残であるかのようなのだ。また、ブータンにはボン教は存在しないといわれる一方で、ポー(男巫)とかネンジョム(女巫)と呼ばれるシャーマン的祭司がボンポとみなされることがある。
それは仏教がさかんになったとき、ボン教徒が看板を引っ込めただけだったことを意味するのだろうか。
八世紀、ティソンデツェン王が幼少のときボン教徒の宰相マシャン・トンパケが暗殺されたのを機に、吐蕃朝廷ではボン教派と仏教派のあいだで激しい戦いの火蓋が切られた。ティソンデツェン王は二十歳になって実権を握ると仏教を擁護し、ボン教徒と仏教徒の論争と見せかけて、敗者となったボン教徒を国外に追放した。しかしその後も、チベット正史では抹殺されている
が、タンパ・ナムカやキュンポ・ゲルダメなど朝廷にも重用されたボン教徒もいたのだ。吐蕃分裂前の最後のランダルマ王によって仏教、ボン教とも弾圧されたときから、ボン教にとって真の苦難の歴史がはじまったといっていいだろう。
形勢がわるくなったとき、ボン教徒はチベット周縁地域に活路を見出そうとした。布教活動をしたボン教徒がシャンシュン人であった可能性もある。タジク(おそらく現在のアフガニスタンからタジクスタンにかけての古代イラン東部)やシヴァ教がさかんだったカシミールに接したシャンシュン国で育まれたボン教に、他教の要素が混入しないはずがない。シャンシュン国がどれほどの領土をもっていたかは、勝者によって書かれたチベット正史からは知るよしもない
が、われわれが想像するよりもはるかに広大であったかもしれない。伝承によれば西はギルギット、北はホータン、南はムスタン、東はナチュまでその領土は拡大していたという。
ボン教はもともと自然発生的な宗教だったとしても、マニ教やゾロアスター教、仏教、シヴァ教、景教などの荒波を受けて、より複雑で洗練された宗教に発展してきた。ミラレパ伝説中にボン教徒が死体蘇生マジックに失敗し、ミラレパによって死者が牛糞のなかの岨虫に生まれ変っていることが見破られるというエピソードが収められているが、このマジックはインド・ファキール(おそらくシヴァ教)の影響を受けている証しだろう。ボン教は仏教導入前のドメスティックな原始宗教ではなく、多くの要素が混入した複雑な体系をもつ宗教だったのだ。現代のボン教があまりにも仏教に似ているため、仏教だけでなくさまざまな宗教の影響を受け、ときには吸収してきたという視点が欠けていた。
古代ボン教は、確立された部分と民間宗教的な部分の二重構造になっていたと私は考えている。ちょうど中国の道教が宗派・教義・経典を有する確立された部分と、民間宗教とも民間道教とも呼べる部分とに分かれるように。確立された部分が仏教化したとき、切り離された民間宗教的部分は民間宗教として捉えられるようになった。
上記の周辺民族のなかでは、とりわけナシ族にボン教の影響が強く感じられることに異論はないだろう。ことばを変えれば、ある時代、ボン教徒はナシ族の地域にやってきて、布教活動をおこなったのである。それが古代シャンシュンの拡張期なのか、吐薯と南詔が戦った時代なのか、ボン教徒が吐蕃宮廷から駆逐されたときなのか、もっと後代なのか、検証する必要があるが、布教活動をおこなったのはたしかである。
トンバ教聖地白地に伝わるアミとよばれるトンバの伝説は、パイオニア的ボン教徒が実在した事実を反映していると考えられる。アミは漢字で阿明と書かれるが、アミという名前は中国名であった可能性が高い。アミは光そのものを表わし、ボン教における「叡智の光」(サルワ・イェシェ)を体現しているのではなかろうか。マニ教は中国に到来したあと光明仏崇拝の僚向を強め、明教と改称している。阿明が明教徒とは考えにくいが、そのもとをたどれば、マニ教に行き着くのではなかろうか。
祭司の呼称トンバは、チベット語ではトンバ・シャキャムニなどと使われる尊称であるが、ナシ族の祭司をあらわすときは、トンバ教開祖トンバシャラから来ていると考えられる。トンバシャラは、あきらかにボン教開祖トンバ・シェンラブに由来する。ボン教開祖トンバ・シェンラブとトンバ教開祖トンバシャラは同一人物か、それとも別人物か、という難題がある。それぞれの伝記を比べてみよう。
トンバ・シェンラブ・ミボはオルモルンリンに王子として生まれた。シェンラブにはふたりの妻と六人の子供がいた。シェンラブはライバルである悪魔キャブパ・ラグリンに七匹の馬を盗まれ、それを追ってチベットへ入る。キャブパ・ラグリンはシェンラブの修行を妨げようとするが、結局敗北し、シェンラブの一番弟子になる。シェンラブはボンの教えを広め、82歳で逝去する。以上の「セルミク」のシェンラブ伝はシャキャムニの伝記の影響が強い。
いっぽうトンバシャラの伝記は仏教説話的な挿話が含まれているものの、より民間故事的である。トンバシャラは母親の左腋の下から生まれる。魔物を殺すための目、口、手、足をもっているのを見た魔物たちはどよめき、この赤子を千の道が交わる所で大鍋に入れて煮る。しかし三日煮てもトンバシャラは耐え忍んだ。トンバシャラは白いガルーダに乗り、360人の弟子トンバを率いて、天国(十三天。ボン教と共通)から99の経典をもってくる。そして天国では天国のトンバ、太陽では太陽のトンバ、月では月のトンバ……というように世界中の弟子トンバに魔物を調伏させる。トンバシャラは地獄国で魔女の親玉スミマツォ・クシュマに対面する。
トンバシャラは、「自分は99人の妻をもつが、そなたの美貌にはかなわない」と言ってスミマツォを娶る。しばらくトンバシャラは魔物鏡圧の仕事を放棄し、スミマツォも人間を食うのをやめていたが、治療した人間の家族にトルコ石を贈られたのを機に魔物退治に乗り出す。トンバシャラはスミマツォを殺し、魔物たちを調伏し、弟子トンバ360人は360の魔物を倒した。しかしツゾジジという子供の魔物だけ逃がしてしまう。魔物が絶滅するとトンバの存在意義がなくなるという理屈を信じたからだ。そのためのち、ふたたび魔物類は増殖したのである。
両者の伝記はまったく異なるもののようにみえる。しかしトンバ・シェンラブ伝はシャキャムニ伝の影響が強すぎ、むしろトンバシャラ伝のほうが古代ボン教のトンバ・シェンラブ伝を踏襲しているのかもしれない。トンバシャラ伝は偉大な悪魔祓いの伝記のようである。
トンバが儀礼をおこなうときのスタイル、すなわち五仏冠をかぶり、左手にシャン(板鈴)、右手に太鼓(多くはダマル)をもつのは、典型的なボン教スタイルである。これだけでも、ある一時期、ナシ族社会にボン教がやってきて強烈なインパクトを与えたことが容易に推察できるだろう。トンバ教はボン撃のものではないが、宗教の根幹を変えてしまうほど、その衝撃度が強かったことを表している。
しかも伝播の時期はすくなくともこの二、三百年ではない。それは瀘沽湖北岸(四川)の左所にチベット仏教と似たギュル・ボン型のボン教が伝わっていることからも実証される。ナシ族に伝わったボン教は、ギュル・ボン以前のボン教なのである。
トンバ教の諸儀礼がボン教儀礼であるかどうかを検証するために、私はあえて大涼山イ族(旧称ロロ族)の宗教(ここではピモ教とよぼう)を引き合いに出したい。なぜなら大涼山イ族はナシ族と言語学的にきわめて近い民族であり、祭司ピモが独自の文字をあやつり、魔を鎮圧し、魂を送ったり修復したりする、いわゆるプシュケボンボス的な宗教儀礼を掌る点など共通点は多いのに、ボン教の形跡が見当たらないからだ。たとえばトンバ教のナーガ儀礼や祭天儀礼に相当するものが、ピモ教にはない。するとナーガ儀礼や祭天儀礼はボン教儀礼かもしれないという仮説をたてることができる。
さらに、附属の「トンバ教・ボン教語彙比較表」(およそ百の神・雷名、宗教用語など)によって、トンバ教とボン教の関係をあぶりだしていきたい。たとえばトンバ教の戦神イァマとボン教のウェルマ、戦神シャチユとチャキュン(ガルーダ)、戦神タラミプと憤怒神タグラメバルなど、対応する神名もすくなくはない。しかしトンバ教のメジャーな神名の多くが比定できないのもたしかなのだ。
そこで一歩踏み込んだ考察を進めたい。トンバ経典上で大神オグアカがチベット文字のA(ア)で表されるのは、A(ア)をシンボルとするボン教神クンサンテコルに相当するからではないか、と私は考える。もうひとりのトンバ教大神サイウェデは、残念ながら相当するボン教神が見つからない。しかし私はサティグ・エルサンが対応すると考える。ややこしい話だが、サティグ・エルサンに相応するトンバ教神にサタイソ・ラムというマイナーな神が存在する。私はボン教伝播にはふたつの大きな波があり、最初の波によってサイウェデが生まれ、二度目の新しい波によってサタイソエフムが生まれたのではないかと想像している。このようにトンバ教へのボン教のインパク トは二回以上あったのではないだろうか。
ところでトンバ文字はボン教とはたしてどういう関係があるのだろうか。自前の文字をもたないとき、経典を書くとするなら、漢字かチベット文字、あるいは(伝播が可能であったなら)シャンシュン文字しかないだろう。しかし言語のちがう他民族の文字で経典を書くのは容易なわざではない。隣接して住む同系統のイ族ははるか昔から自前の表音文字を有している。そのような状況のなかで、トンバだけが了解できる一種の秘密文字として、絵と記号を組み合わせたトンバ文字が編み出されたのだろう。
ではボン教とトンバ文字は無関係なのだろうか。四川・甘粛藁に分布する古代テイ族の子孫とされるチベット系ペーマ族(白馬族)のボン教徒が参考になる。彼らはチベット文字による経典にタッチこそ違うが絵を多用しているのだ。チベット文字経典がほとんど役に立たない周縁地域では、ボン教を広めるために絵の利用が推奨されたのかもしれない。
仏教がナシ族に与えた影響についても検証しておく必要がある。十三世紀のフビライ汗の雲南遠征以来麓江を支配してきた木氏(ジャン・サタム王)は、トンバ教を軽んじるいっぽうで、熱心にチベット仏教を取り入れ、パトロンとして保護し、帰依したことである。その宗派は、カルマ黒帽派と赤帽派だった。黒帽派は七世活仏(十五世紀)の頃、赤帽派は二世活仏(十四世紀)の頃から麓江木氏との関係がはじまっている。黒帽派十世は1639年、ゲルク派との抗争に敗れ、亡命地として麓江を選んだほどだった。これより少し前、十七世紀初頭に木氏は赤帽派六世に大蔵経の刊刻を要請している。これが有名な麓江版大蔵経である。しかし1667年、青海モンゴル軍に奪われ、四川理塘へ運ばれたので、理塘版大蔵経ともよばれる。
トンバ経典にチベット文字が現れるのは、ナシ族の地域にチベット仏教が普及していたからにはかならない。チベット文字どころか、トンバ経典のなかには、「懺悔経」など二、三のチベット文字で書かれた経典さえあるのだ。その内容はとくにボン教的特質をもっているわけではなく、むしろチベット仏教の影響が強かったことを物誇っている。
ナシ族の社会では、病人の治療儀礼はトンバがあたるが、死者の葬送儀礼はトンバとチベット仏教僧双方が持分の役割をはたし、連体の最終処理段階(火葬)は仏教僧に委ねられた。このようにトンバ、仏教僧の役割分担がはっきりし、ときには共同作業をおこなうこともあったのである。翻って現在のボン教(ギュル・ボン)は、トンバ的な役割を放棄し、仏教僧の役割を遂行しようとしているように見える。仏教の形態を摂取して生き残りをはかるあまり、本来の職分が忘れられてしまったのかもしれない。
トンバはより厳密にいえば、シャーマンではなくプリースト(祭司)である。トランスによってダイレクトに神と通じるのではなく、儀礼、祭祀など神との通じ方にたけた賢者なのだ。その意味で、トンバはボンポがめざしていた古来のかたちであったといえるだろう。
第二部 二元論的宇宙の伝播
ペルシア的二元論創世神話がどのようにボン教に取り入れられ、さらにトンバ経典「ドゥ部落とシュ部落の戦い」の骨組みとなったか、さまざまな角度から可能性を論じたい。
二元論はいわば人類最古の宇宙観のひとつといってもいいだろう。古代バビロニア神話にはすでに太陽神マルドゥクと、地下と死の神ネルガルが登場するが、まだ二元対立的な構造には至っていない。
現在の定説にしたがえば、紀元前630年頃イラン東部にゾロアスターが誕生した。ゾロアスターこそ二元論宇宙観の生みの親である。ゾロアスター教によれば、宇宙開闢は善と悪、すなわちスプンタ・マンユ(アフラ・マズダ)とアンラ・マンユの出会いによってはじまる。善と悪は、光と闇でもあった。アケメネス朝ベルシアの頃、ゾロアスター教では時間を中核とする思想が潮流となってくる。
それがズルワニズムである。時間神ズルワンから双子の神アフラ・マズダーとアーリマンが生まれる。アフラ・マズダーには善、光、火、白色など、アーリマンには悪、闇、死、黒色などの特性が付与され、二元論はひきつがれている。ズルワニズムが従来のゾロアスター教ときわだって異なるのは、時間(ズルワン)を万物の根本原理とすることである。
チベットのカーラチャクラ・タントラ(時輪タントラ)は、直接、あるいは間接的にズルワニズムの影響を受けているのではないかと考えられる。そして双方ともインドの「アタルヴア・ヴューダ」に源流をもとめられるかもしれない。
ボン教にもゾロアスター教、あるいはズルワニズムの影が濃く落ちている。二元論的創世神話だけでなく、三人の救世主的存在も両者に共通する。ボン教の救世主はダクパ、セルワ、シェーパの三兄弟であり、過去・現在・未来をそれぞれ担当する。現在のセルワとはボン教開祖シェンラブ・ミボのことである。いっぽうゾロアスター教の救世主サオシュヤントは、ゾロアスターの死後三千年間、千年ごとにひとり、つまり計三人が現れる。
マニ教はゾロアスター教が国教だったササン朝ベルシアに突如あらわれた異端宗教だった。マニが唱えた根本的宇宙観、二宗三際(光と闇の二宗、過去・現在・未来の三際)は、あきらかにゾロアスター教・ズルワニズムとボン教の橋渡し役をはたしているといえるだろう。
ゾロアスター教・ズルワニズムの二元論は善悪の倫理的二元論であったが、マニ教は善悪二元論を土台に置きながら、物質・精神の二元論の要素を導入している。マニによれば、人類始祖アダムとイブの肉体は暗黒物質で構成されているものの、魂は光明分子で成り立っているという。
この教義は一種の肉体嫌悪につながっていく。後代、バルカン半島のパウロ派、ボゴミル派、フランスのカタリ派といった極端に禁欲主義的なネオ・マニ教や、宋代中国で喫菜事魔とよばれた修練を尊ぶ摩尼教へと発展していく素地がここにあるのだ。
マニ教は民族の枠を超え、グローバルな布教を意図したという意味では、画期的な宗教だった。教主マニみずからインド北西部へ行って布教をおこなった。マニ自身がシャンシュン国のすぐ近くへ出向いたという意味合いは大きい。二宗三際の概念がシャンシュンのボン教徒に衝撃をもたらしたのではないだろうか。
ムタ(天地をつなぐ綱)が切れて、はじめて遺骸を地上に残したことで有名なディグン王の時代(五世紀?)にはたくさんのボン教徒がチベットにやってきたという。このボン教徒というのはマニ教徒ではないだろうか。ちなみにムタのムは、ナシ族をはじめ多くのチベット・ビルマ語族が天をムとよぶことからしても、天を意味するだろう。トンバ・シェンラブがムの一族というとき、それは天の一族ということなのである。
上記のアダムとイブの神話をはじめ、二宗三際の宇宙観をもつ宗教に、おそくとも二世紀には成立していたヨルダン東部起源の洗礼教団として知られるマンダ教がある。イラク南部とイラン南部にごく少数ながらもコミュニティーが現存する、いわば唯一現代まで生き延びているマニ教的宗教だといえるだろう。マニの父親がマンダ教の信者だったという説があり(エルカダイ派という説もある)、マニはゾロアスター教よりもむしろマンダ教から教義や宇宙を創出したとも考えられる。
マンダ教起源地からそう遠くない死海で発見された、クムラン教団によるいわゆる死海文書にも、光と闇の二元論が登場することは注目に値する。記されているのは、正義の息子である光の王子が光の道を歩み、欺瞞の息子である闇の天使が闇の道を歩むという話である。
グノーシス的な初期キリスト教もマニに影響を与えた。たとえばエデッサの異端者パルデサネス(154−222)は宇宙が五大要素、すなわち東の光、西の風、南の火、北の水、地下の暗黒によって構成されると描写する。しかし五大要素は混合し、混沌状態になってしまったので、神は光と闇をまぜあわせて世界を創造したという。
光と闇の二元論以外にもマニ教に影響を与えたグノーシス主義の概念は、バシリデス(二世紀初頭)の「非・存在」と「宇宙種子」だろう。「非・存在」の概念をマニ教はくわしく述べないが、ネオ・マニ教であるカタリ派はその概念を好み、聖書ヨハネ伝冒頭の「はじめにことばがあった」を、「万物はことばによってつくられた。そしてことばによらずに無(非―存在)がつくられた」と解釈したほどである。
ボン教の宇宙創世は、「太陽も月も時間も季節も生まれてないとき、ただ純粋なる可能性があった」ではじまる。これはバシリデスの「宇宙種子」の概念にあたるが、トゥッチはこの一節をズルワニズムの影響だとみている。さらに宇宙創世は「そこから白い光と黒い光が生まれた」とつづく。ここでは光=存在(シバ)と闇=非存在(メパ)というイラン型二元論的宇宙創世が繰り広げられているのだ。
「宇宙種子」の概念は、ボン教を経て、トンバ経典「ドゥ部落とシュ部落の戦い」の冒頭部に現れている。「はるか昔、天と地がまだなかった頃、宇宙の開闢がなかった頃、太陽と月が出現していなかった頃……」と、ボン教の宇宙創世とそっくりだ。
しかしつづく「声」と「息」の宇宙空間から白い卵が生まれ、つづいて緑、黄、赤、そして黒の卵が生じるという場面は、あきらかに中国の五行思想の影響だ。だが中国の影響はこの程度に終わる。重要なことは、白と黒は陰陽ではないことだ。白と黒は(おそらく永遠に)戦うが、陰と陽は合一することをめざすからである。
この白い卵からドゥ家の始祖ムルドゥズが生まれ、白い天、白い地、白い太陽、白い月…というふうに白い世界が誕生する。いっぽう黒い卵からシユ家の始祖ムルシュズが生まれ、黒い天、黒い地、黒い太陽、黒い月…というふうに黒い世界が誕生する。ここでは擬人化された光=存在と闇=非−存在の戦いがはじまろうとしているのだ。
トンバ経典の宇宙創世をつづけよう。
白い露が変化して、この世界の原初のすがたが現れる。聖なる山ジュナルァラ山、聖なる樹ハイバダ、聖なる海ムルダジ、聖なる石ツェツェヘルなど、どのトンバ経典にも登場する原初の世界が現出するのである。
ロックはジュナルァラ山をティセ(カイラス)山に、ムルタジ海をマナサロワール湖に比定している。たしかにジュナルァラ山を示すトンバ文字は卒塔婆のような図形で表され、イメージ的にはティセ山を想起させる。しかし葬送儀礼のときジュナルァラ山に見立てた三角錐の金属(犂の一部)を見ると、四川南部の山頂の尖った聖山コンガ雪山を結び付けたくなる。先祖が来た道を具体的な地名で記す指路経を逆にたどると、コンガ雪山あたりに落ち着くとされ、この説をさらに有力なものにさせる。
しかし、おそらくジュナはナシ語で巨大を意味し、ルァラはチベット語のリラブ、すなわち須弥山と解するのが妥当ではなかろうか。もしこの神話そのものがボン教徒によってもたらされたとするなら、ジュナルァラ山はシャンシュンの聖山であるティセ山のはずだ。それはたんなる聖山にとどまらず、宇宙の中心であり、須弥山なのである。ミラレパがティセ山でボン教グル、ナロ・ブンチョンとコンテストを行い勝利したという伝説は、ボン教の至高の聖地を仏教が奪い取ったことを象徴的に誇っているのだろう。
ハイバダ樹は十二重ねの葉、十二叉の枝、十二の花弁をもち、十二支や十二の月などもここから発したというので、いわば時間樹である。また霊薬を産する生命樹でもあった。ゾロアスター教の不死の霊薬(ソーマ=アムリタ)がつくられるハオマ樹と非常によく似ている。ハイバダ樹にはまた、金花と銀花が咲き、結ばれて玉果が成る。その玉果の争奪戦から戦いがはじまり、死と葬送も出現したという。
ドゥ部落(自)とシュ部落(黒)の境界は「鳥さえも行き来できない」特異な場所である。ズルワニズム神話では善悪の境界、つまり光明界と暗黒界のあいだに虚空があるとしている。そこはワユ(風神)の領域である。「ドゥ部落とシュ部落の戦い」に白と黒の境界で黒風が密偵として活動するシーンが出てくるが、これは偶然ではないだろう。
ある日ドゥ部落の王子アルとシュ部落の王子アセミアは白と黒の境界でサイコロの賭け事をした。アルは正直者で、アセミアは狡猾者だったので、アセミアが勝った。ここにも白と黒は善と悪に対応している。アセミアはしかし白の世界を嫉妬し、渇望し、白の天地を建設してくれれば金銀財宝を進呈しようと誘いをかける。この白の世界を欲するエピソードは、マニ教創世神話で暗黒の王子が光の国を欲するのに比例するだろう。
シュ部落(黒)のアセミアは、白と黒の境界で陥穽にはまって死んでしまう。シュ部落のムルドゥズはわが子の悲報を聞いて憤慨し、何千何万の軍隊を派兵してアルを捕らえようとする。
アルをおびきだすのに成功したのは軍隊ではなく、シュ部落の王女クザナムの色香だった。口琴に引き寄せられたアルの魂は白鷹・虎・ヤクなどに変化し、クザナムの魂もまた黒虎や母牛に変化し、海辺や草原で戯れた。しかし白と黒の境界で黒風に見つかり、捕らえられてしまう。黒い独房に入れられながらもクザナムとの恋はつづき、男女の双子が生まれる。白と黒のあいだに男女の双子が生まれるというのは、ズルワニズム的である。クザナムは双子に「あなたたちの父はわれわれの骨、母はわれわれの肉なのですよ」と謎めいたことをほのめかす。父方=骨、母方=肉というのはチベット的な概念である。
アルは結局処刑される。それに憤慨したムルドゥズは何千何万もの兵士を差し向ける。こうしてドゥ部落とシュ部落の全面戦争が勃発する。戦闘の場面は神話全体の半分近くを占めるが、話の面白さはさほどでもなく、冗長とさえいえる。ただ特記すべきはすべてが二元論的であることだ。白と黒、光と闇、善と悪、神と魔…‥というように。ドゥ部落に三大神が味方すれば、シュ部落には三大魔が味方する。このような極端な二元論的構図は中国的ではなく、チベット的でさえもなく、イラン的だといえるだろう。
神話の結末は、いうまでもなく白のドゥ部落の勝利である。この「ドゥ部落とシユ部落の戦い」は病人に治療儀礼を施すときによく読誦されるという。白が黒を、神が魔を調伏するダイナミックな物語を読誦しつつ、病気を起こしている魔鬼を追い出そうというのだ。悪魔祓いをおもな仕事のひとつとしていたというボン教徒にぴったりの経典ではなかろうか。
以上のことからペルシアの宗教(とくにマニ教)がボン教に影響を与え、ボン教がトンバ教に影響を与えたことが明らかになったと思う。中国的価値観(祖先崇拝や陰陽五行)をかなり取り入れていたトンバ経典のなかにあらわれた二元論的神話は、ペルシア宗教の影響を受けたボン教がナシ族の地域にやってきたことの間接的証明になるだろう。トンバ教=古代ボン教と決めつけるのは危険にしても、トンバ教から古代ボン教のすがたを探ることはできるのだ。